アムリタ2 -死なない仮面の女とパーフェクトな小説家-
お久しぶりです。赤沙汰です。
「これまでにない小説体験!」という文句の評価を、私はこれまで2回ほど見てきました。
1回目は、おなじみ清涼院流水による『コズミック』『ジョーカー』の変則的順序による、いわゆる”清涼in流水”読み。
そして2回目が、野﨑まどによるデビュー作『[映]アムリタ』から『2』までの6連作です。
前者は著者本人による豪語、後者は読了した数人がそのように述べておりました。
流水大説に関してはもうかなり言及したような気はしますが、意外にもその2作についてはまだだったようです。まあ機会があれば、ということで。
昨夜まで『2』を読んでいたところです。
講談社タイガから刊行されていたバビロンシリーズを読んでから、この6連作の存在も知ったのですが、まあ最初に言った「未知なる読書体験」みたいな評価に惹かれてしまったもので。私はどうも、そういうプロット的なカラクリや文体、装丁などのカラクリに惹かれてしまうようです。
①[映]アムリタはメディアワークス文庫賞受賞のデビュー作。
二見遭一は、天才・最原最早による絵コンテを二日間以上も読み続けてしまったことで、映画を作る彼女の才能に惹かれていく。
②舞面真面と仮面の女
舞面真面は、曽祖父・舞面彼面による遺言の謎の解明に挑む際、仮面を付けた不思議な少女に出会う。
③死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~
伊藤先生が着任した藤凰学院には、「永遠の命を守った生徒」がいるという噂があった。しかし自らをそのように名乗る女生徒は、ある日何者かによって殺害されてしまう。
④小説家の作り方
小説家・物実のもとに「小説の書き方を教えてほしい」というファンレターが届く。
⑤パーフェクトフレンド
小学校四年生の理桜は、不登校の天才少女・さなかの家を訪ねることになる。そしてさなかは「友達」に興味を抱く。
⑥2
数多一人が入団した超劇団・パンドラは、ある人物の出現によって解散してしまう。その人物は一人に対して、ある映画への出演依頼を持ちかける。
ざっと6連作のあらすじです。文字色を白にした理由は後述します。
『2』に対する形で、先の5作は実質的に『1』です。
この「読書体験」という言葉の振れ幅が非常に難しくて、何と説明すればいいのやら。
ネタバレを含むので文字色を一部白にしています。
PCの貴方は文章を選択して文字色を反転させてください。
スマホの貴方は、申し訳ありません、面倒ですがこの文章を全選択してメモ帳アプリなどにコピー&ペーストすれば見ることができるかもしれません。
言うなれば『2』は、「先の5作での要素・登場人物が全て登場する」というものであり、そういう意味では、「様々な作家における「世界観・作品間リンク」」と同じようなものです。ただ、『[映]アムリタ』~『2』は、そういったものとは若干、異質なものです。最原最早の天才ぶり、鬼畜ぶり、人間離れっぷりを、この『2』において楽しむものです。早い話が、『[映]アムリタ2』なのです。
「前5作のその先の話」として『2』は描かれているので、実質的に「『舞面真面と仮面の女2』であり、『死なない生徒殺人事件2』であり、『小説家の作り方2』であり、『パーフェクトフレンド2』」です。そういう意味合いを含んでいるために、野﨑まど6連作においては刊行順通りに読むことが求められているわけです。
6連作を通して、「人間・創作・愛」について語られます。その「三要素全ての究極形態として最原最早が存在」しています。現実的な話ではなく、全ての作品にSF要素がある。ごく僅かではありますが。
あと、彼女の映画や彼女の演技、さなかが導き出した友人定数の詳細な式、紫依代の小説、三角形と四角形の間の図形、四角形と五角形の間の図形などなど、そういった不思議な存在の詳しいメカニズムは書いていません。ただ単に、その映画、絵コンテを見た二見遭一の反応、「愛してる」と言う彼女の演技を見た数多一人の反応、紫依代の小説は……結局物実は読んでませんが、図形を見た伊藤先生の反応などなど、そういったものが代わりに描かれて、この世に存在できない現象や概念が描写されています。
言ってしまえば、それは伊藤計劃『虐殺器官』における虐殺の文法のようなものであり、「そういう代物のメカニズム」を中心に描いているわけではなく、そういった「不思議な代物に対する周囲及び主人公の反応」を中心的に描いているのです。「虐殺の文法」は虐殺を呼び起こしました。そして「最原最早の映画」は、人格の改変をもたらします。人格の改変というか。上書きと言ったほうがいいのかもしれません。
彼女が目指す究極の映画。そして「2」の意味。
これまで5作の物語を、彼女は一人で翻弄します。
彼女にとっての映画とは、人の心を動かすという意味での「感動」の正しい解答に辿り着くための手段でもありました。同時に、自らの子を神様に仕立て上げるための手段であり、「天使と神様による最究極映画」を作るための目的の一端でしかなかった。彼女自身は天才なので、既に人間・創作・愛に関する「感動」への解答に辿り着いています。その上での彼女の野心がある。これまでの5作は、彼女にとっての一手段でしかなかった。不死の少女や仮面の女すらも、彼女の前にはひれ伏すしかなかった。人間である「はず」の彼女の恐ろしさはそこにあるのです。
まさしく「『2』のために書かれた5作」という表現が当てはまります。ピッタリと。それほど、全作品とも重要な立ち位置を成しているのです。
読みやすさは抜群。「その先を知りたい」という思いが少しでもあれば、自然と6連作読み終わってしまうのではないかと。ページの残り具合で今後の展開を予想する人間とっては、まあうってつけの作品群ではないでしょうか。
6作揃えてから読むのもいいです。読むたびに手に入れるのもいいです。ただ、『パーフェクトフレンド』と『2』はあらかじめ2作同時に手に入れておくのがいいかもしれません、『パーフェクトフレンド』読了後にすぐ『2』を読むのがわかりやすいかも。
個人的には裏表紙の詳細な粗筋を読まずにいきなり読むのもまた一興(上記に書いている粗筋よりは詳細に書いています。文字色を白にしたのはそのためです)。
文章の遊び具合にも注目ですね、あとそれぞれの登場人物のネーミングも面白いです。掛け合いも面白い全作品に渡って、漫才のようなコメディシーンがあります。それがあるからこそ、シリアスなシーンにおいて、一層緊迫感が増し、物語の脅威が増幅する仕掛けなのだと思います。
そういうわけで以上です。
2ヶ月ぶりのブログ更新となりました。
今後は気をつけたいところですね。