お知らせ
こんばんは。赤沙汰です。
随分とご無沙汰しております。なんというか、読了ツイートもかなりおざなりに……。というか、最近は本すら読まなくなってきている危険な状態です。危ういのか? と首を傾げるかもしれません。この場合は、まあ、何でしょう、本を読む暇が限りなく駆逐されつつある状態を指します。そう、時間がないのです。物理的な時間もそうですが、精神的な時間もちょいと危うし。
そんなこんなで深夜に更新です。他の方もちょくちょく更新してくれているようです。嬉しい限りです。
ですが、来年度、つまり明後日辺りですかね、4月より、ようやくの完全移行となります。
何が、というと、当研究会の公式ブログが、です。
今までyahooのブログにて更新をしていました。最近私も一日だけの更新をしていましたが、はてなブログでの更新に慣れてしまうと、いささか不便にも感じるようになってきました。以前から、ブログ移行の件が検討され続けていたこともあって、試験的に開始したはてブロですが、まあ使い勝手のよろしいこと。利便差の話をするなら、記事を書くこと自体には、それほど変わりがありません。しかしその他の機能の充実具合がなんとやら。スマホで一度書いたこともありましたが、使い勝手の良さを実感するなら、スマホで書いたほうがより実感できるような気がします。
まあまあそんなわけで、ブログはこちらに移行します。
yahooブログ期と変わらず、更新は週替りの当番制になりますが、当番になっていない部員さんも、自由に更新できるようにはしようと考えているところです。
こんな深夜に更新するのもなんだか変な感じだなあと思いながら、今日はこれにて。
音楽趣味暴露
どうも、佐藤実です。
自分の音楽の趣味書きます。
まず、最初に僕は歌っている歌手の名前をほとんど覚えません。というより覚えられません。
子供の頃から曲を聴くときも歌手に一切注意を払わず、それがそのまま現在に至りました。大学に入ってから曲は必ずタイトルと歌手両方覚えるのが当たり前みたいな感じだったので少し戸惑いました。
そもそも曲のタイトルすら覚えないこともありました。あの悲しげな感じの奴、とかそんな感じで曲を区別してました。流石に今はタイトルを覚えるようにしてます。さらに歌詞にもあまり注意を向けません。だからなのか外国の曲やイントロも好きです。勿論外国の曲は気に入ったものは調べてます。
お気に入りの曲はころころ変わるので今何かしら挙げても恐らくすぐにまた別のに変わるんですよねぇ...
最近だとMylene Farmerの「On est なんとか」と、
ロシアの80年代のあるテクノポップバンドが有るんですけど、それも好きです。
名前は忘れました。
最近ポケモンの「友達記念日」という曲を発掘しました。子供の頃に聴いてて、メロディは覚えていたんですけどタイトルがわからなかったのでポケモンの曲というのだけを手掛かりに探したら見つけました。改めて聴いたら歌詞に虫酸が走ります。
個人的に日本の曲はそういうの多いです。
時間とデータを無駄にしてすみません
風来坊の勝手に放言抄―続けるということ―
こんばんは。風来坊です。
どうでもいいことですが、予測変換で「風来坊の勝手に放言抄――」と出てくるようになって若干困惑しています。まあ、このブログを書く時は便利ですけど。
先ほどまでOBの先輩方とも話していたことですが、何事も続けるということは大変だ、ということを最近よく考えます。
とあるOBの先輩(先の方とは別の先輩です)は、入部してから卒業するまで欠かさず作品を投稿し続けました。現役部員だと赤沙汰君がそうだったと思います。素晴らしいな、と思います。僕のような不真面目な人間ならまだしも、活動に積極的な他の部員でさえ出さない回があったでしょうに。
文芸以外でも、例えば語学の勉強だとか、自分でやると決めて続けなければいけないことというのは、好きじゃないと難しいものです。そこまで好きじゃないけど、続けたいと思うことは習慣化させるために、最初はどんなに小さな量でもいいから欠かさずやる必要があるのでしょうね。
めちゃくちゃとりとめもない話題でしたが、この辺りでお別れとしましょう。
青春時代(森田公一とトップギャラン)を聴きながら、風来坊がお送りしました。
風来坊の勝手に放言抄―いつか来た道(受験生の皆さんへ)―
こんばんは、風来坊です。
2月も終わりだというのに、冷え込みが厳しいですね。インフルエンザも流行っているようですし、体調には充分気を付けてお過ごし下さいね。
さて、いよいよ明日から北九州市立大学の前期一般入試があります。
受験生の皆さんはプレッシャーに押しつぶされそうになっているかもしれません。でも、これまでやってきた勉強は皆さんを裏切らないはずです。力を出し切れるよう応援しております!
……と、先生やご家族から散々繰り返し言われてきたであろうことをこの場でまた言ってもしょうがないですよね……。
僕も5年前に皆さんと同じ受験生だった訳ですが、なんというか、当日は案外あっという間でした。僕が受けた学部はそれほど倍率が高くなかったですが、それでも若干緊張しました。でも、試験が始まってからはそれどころじゃなかったので(科目が小論文だったのでとにかく書きまくらないといけませんでした)、気にならなかったし、時間が経つのが早かったです。緊張してやらかしたらどうしよう……と思っている人もいるかもしれませんが、とにかく手を動かしてみましょう。
あと、予想外のことが起きても慌てないこと。慌てないってのは無理かもしれませんが、周りの人に助けを求めましょう、とりあえず。道に迷ったとか、試験中に腹痛に襲われたとか……。臨機応変に。もちろん、準備はしっかりしておくことに越したことはないですけどね。
あんまりあれこれ言っても仕方ないのでここら辺にしておきます。
それでは皆さん、ご武運をっ!
風来坊の勝手に放言抄―冬といえば……―
皆さん、こちらのブログでははじめまして。
卒業間近の4年生、風来坊です。
とっくに引退をしている僕が書き込んでいいものかどうか迷いましたが、
面白そうなので記事を投稿させていただいた次第です(赤沙汰君には一応許可を取りました)。短い間(予定)ですが、どうぞよろしくお願いします。
さて、2月もとうとう下旬になりました。
早いものですねえ。冬もあとわずか、春まであと少しです。
冬も終わりに近づいているということで、まあ文芸とは全く関係ないですが(いや、文芸について語れよと言われるかもしれませんが、それはまた後日に……)、冬に似合う曲についてちょこっとだけ書き連ねていこうと思います。
「冬」という単語が直接入っているもので一番僕が好きなのは、「白い冬」(ふきのとう)です。ふきのとうはフォーク・デュオとして知られていますが、この曲はフォークというより演歌っぽい曲調かと思う人もいるかもしれません。冬の厳しさを表しているような曲調に、恋人と別れて一人で冬を迎える女性の心境が描かれた歌詞が見事にマッチしています。日本酒でもあおりつつ、しみじみと聴いていると、非常に落ち着きます。また、僕が初めて「白い冬」を聴いた時、同じCDに入っていたのが「雪」(猫)でした。当時はそんな気にならなかったですが、久しぶりに聴くと、なかなかどうしていい曲ですね。聴いていてコーラスがとても心地良いです。猫は吉田拓郎のバックバンドを務めたこともあるグループですが、この曲も吉田拓郎作詞作曲です。さすがは拓郎。
さて、冬の一大イベントとして、クリスマスがありますよね。バレンタインデーもいい曲がありますが、そちらは割愛して、クリスマスに関する曲をいくつか。
ここまで本文をご覧いただいたら分かる通り、僕は音楽の趣味が懐メロに偏りがちです。それでも、「いつかのメリークリスマス」(B'z)は僕の中では比較的新しめの曲ですが大好きです。というか、クリスマスには欠かせません。最初から最後まで切ないです、この曲。クリスマスソングのカップルは、幸せなまま過ごすか、あるいは失恋してしまって思い出を振り返るという二つのパターンに大体分かれているように思いますが、この曲は後者のパターンでも屈指の切なさでしょう。一方、「安奈」(甲斐バンド)は歌詞の展開を見てみると、必ずしも単純に失恋したまま終わるというよりかは復縁しようとしている所で終わっている風に僕には見えました。それを考えると、「いつかのメリークリスマス」の方がなおさら切なさを感じます。「安奈」ももちろんいい曲です。聞いてて幸せになる感じで。切ない系の曲をもう一曲挙げるなら、「クリスマスキャロルの頃には」(稲垣潤一)でしょうか。曲調は前の二曲とは違い、マイナー調で、お洒落さが漂っています。歌詞は相手を愛しているからこそ一旦距離を置こうという、いわば失恋系ですかね。かといって暗すぎない感じがgood。ちなみにこの曲、僕が生まれた年に発表されているんですね。
幸せ系の曲としては、「クリスマス・イブ」(山下達郎)……ってこれ、歌詞が失恋系でしたね。聴いていて心が洗われるようではありますが。ということで奥さんの曲である「すてきなホリデイ」(竹内まりあ)は間違いないでしょう。まあ、出てくるのはカップルというより、家族ですが。カップルが出てくるもので明るい曲といえば、「恋人がサンタクロース」(松任谷由実)ですかねえ。
……こんなところでしょうか。明らかに選曲が偏っていますし、拾い切れていない名曲も多々あると思います。
ついつい長文になってしまいましたが、こんな感じでこれからもお届けしたいなと思っています。皆さんも、おすすめの冬に似合う曲があったら教えて下さいね!
ご覧いただき、ありがとうございました!
九十九十九のこと。
舞城王太郎の『九十九十九』を語るには、私はまだ条件を満たしていない気がするが、それは御承知御了承願いたい。条件。つまり清涼院流水御大のJDCシリーズの『彩紋家事件』と『カーニバル』を読めていないからにほかならない。逆を言えば、『コズミック』『ジョーカー』は読了済みなので、あくまでもこの二つの話は出していくことになると思う。
語るにあたって、やはり説明も必要だろう。清涼院流水と舞城王太郎とJDCシリーズにおける九十九十九と、そもそもJDCシリーズ並びにJDCトリビュートについて。
清涼院流水。私が敬愛する作家の一人。ロクにそれほど作品も読んでいないのに敬愛も何もあったものじゃないが、そういうものだと認識していただきたい。メフィスト賞第二回の受賞者。受賞作は『コズミック~世紀末探偵神話~』。世間からはかなり叩かれたミステリ作品であり、たぶん現在進行形で今この時も叩かれ続けていると思う。最近はTOEIC満点を獲ったり英語学習関係で活躍中(?)。
舞城王太郎。私が敬愛する作家の一人。ロクにそれほど作品も読んでいないのに敬愛も何もあったものじゃないが、そういうものだと認識していただきたい。メフィスト賞第十九回受賞者。受賞作は『煙か土か食い物』。流れる文体。カタカナ英語。主人公はいつだって天才でいつだって女ったらし。漫画作品『バイオーグ・トリニティ』で原作やったり映画作ったり翻訳したりと、多方面で活躍中。
九十九十九。清涼院流水のJDCシリーズに登場する探偵いや探偵神。メタ推理を得意とする。その名も「神通理気」。必要なデータさえ揃えばすぐに真実へ辿り着く。推理を必要とせず、そこに過程は無い。有るのは結果のみであり、真実しか無い。美貌を極めた彼の顔は、見る者を恍惚の失神へと導いてしまうため、いつもサングラスをかけている。
JDCシリーズ。清涼院流水の作品シリーズであり清涼院流水を代表するシリーズと言っても差し支えない。京都に位置する日本探偵倶楽部にて所属する探偵たちを描いた物語。「これはミステリなのか?」と、読者を唸らせる最高の作品。
JDCトリビュート。JDCシリーズをもとに書かれた作品たちの総称または企画名。主に書いているのは西尾維新と舞城王太郎。西尾維新については『ダブルダウン勘繰郎』と『トリプルプレイ助悪郎』を参照のこと。いつもの西尾節が見られる。
と、一通りの説明を終えた後、早速始めることにしよう。
そもそも『九十九十九』は、「第一話」の話の流れについていけなかったら読むのをやめたほうがいいと思われる。悪いことは言わない。何がどう読みにくかった自分に合わなかったかを自覚できていないならまだしも、自覚した上で辛いと思いつつ読むのは愚の骨頂である。そんなの、この小説に限った話ではないけれど、この小説は特にそういった傾向が強い。一般常識に縛られて読むのはやめておこう。寛大に受け入れるべし。一行目「産道を通って子宮から出てきた僕が感動のあまり「ほうな~♪」と唄うと僕を抱えていた看護婦と医者が失神して、僕はへその緒一本でベッドの端から宙吊りになった」と。要するにそういうお話である。原作よりも遥かにこちらの九十九十九は強化されている。美しさのあまり、実母ではない他の女鈴木君に掻っ攫われ、以降彼女の世話を受ける。与えられた名前は「寛大誠実正直」。でもやっぱり美しさのあまり彼は目玉を繰り抜かれ鼻を削がれ、間一髪で元通りになるもやっぱりそれは続く。鈴木君も鈴木君で、やっぱり彼の美貌に魅せられて失神してしまうのでまともに世話もできない。それゆえの仕打ちである。見かねた配偶者加藤君はとうとう実家のある福井県西暁町へと連れて行き、鈴木君は刑務所へ行く。同じく彼と一緒に連れられて来た鈴木君と加藤君の実子であるツトムは唯一彼の美貌を見て失神しない人間であり弟である。聖思流と聖理河は双子の兄妹。お互いの妄想の中に幻影城を建設していて、彼を人間としては扱わない。ガジョブンと呼んでペットとして扱っている。
そんなこんなである日殺人が起こる。創世記とヨハネの黙示録を見立てた殺人が。苗字を加藤とし、九十九十九を名前として与えられた加藤九十九十九は、揃うものさえ揃えばすぐにわかる。何もかもわかる。だからこの殺人が見立てだとすぐにわかった。誰が殺人犯かもすぐにわかった。腹を切り開き、その中に潜り込んで再び産まれることで、別の女の子供になろうとした二人の子供、セシルとセリカが犯人だと。
そんなこんなであっという間に第一話は終わる。
第二話の準備はできてるかい?
でもまあ第七話まであるわけで、それをいちいち語っていたらば日が暮れて登ってくれても終わらないだろうからダイジェストでお送りすることを許してほしい。どうか。
第二話は全然違うお話が始まる。違うとは言ったって、九十九十九であることに変わりはないけど、周りを取り囲む人間関係が違う。泉と梓とネコ。この女の子三人と一緒に焼死体事件について解決。そして「清涼院流水」を名乗る人間から「第一話」が送付される。結局先に語った第一話のことであるが、実際は違う。先の「第一話」と、この第二話における九十九十九の過去は、似て非なるものであった。
第一話。
第二話。
第三話。
第五話。
第四話。
第七話。
第六話。
このように続くわけだが、間違っているわけではない。ちゃんとこのように進行するのだ。第三話においては「第一話」と「第二話」の原稿が送られてくるし、第七話では「第一話」から「第六話」までの全ての原稿が送られてくる。一貫して見立ては行われているし、行われなかった見立てもある。行われなかったというのは、要するに起こるべくして起こらなかったことでもあり、しかし逆にちゃんと起こったということでもある。清涼院流水は様々なペンネームに身を変えて、編集者太田克史は何度も死ぬ。
物語の話数の順序が違うからといって、無理に読み返す必要はない。なぜなら一度起こった、一度描かれた「第四話」「第七話」は違うものであるかわりに、それ自体は微動だにしないからである。第五話が終わり第四話が始まるのにはちゃんと理由があって、第七話の後に第六話があることにも理由がある。だけど第四話の後に続く第五話は、ここで描かれる第五話とは違う第五話だし、第七話にしてもそれは同じで、第六話の後に続く第七話は違うものである。第五話を読んで第四話を読んだからといって、第五話に何らかの変化が訪れることはない。何かの発見はあってもだ。紙媒体には酷な技である。
そもそもそれぞれの「話」における世界は他の「話」とは違う世界なのであって、だからこそ原稿として成立しうるのである。様々な世界を描いた様々な「話」が、様々な世界に送られ、様々な九十九十九に読まれ、そして否定される。書き手は否定しかされない。なんとも浮かばれない清涼院流水。キリストの代わりに十字架に磔にされていた時は涙が止まらなかった。それは嘘である。
どの世界にもどの「話」にも、九十九十九の隣には女の子がいて、時々義母もいて、三つ子の「寛大」「誠実」「正直」もいる。だからそういう意味では「第一話」以外の九十九十九は幸せな家庭を築いていたわけだ。幸せで終わらなかったのは、清涼院流水から原稿を送られたり、周囲でヨハネの黙示録と創世記を見立てた出来事がいくつも起きて、講談社ノベルスが前触れなしに腹から出てきたりしたからで、そういう出来事が全部九十九十九を追い込んで無理矢理動かしたのである。原動力は小説だった。舞城作品特有の家族愛に変わりはない。何があっても家庭は続く。綺麗な終わり方とはそういうものである。
九十九十九。9109109であり9+9+9。要するに27の三位一体であり、彼は三つで一つ。「三位一体」は物語中でもキーワードとなっている。彼の言う三位一体というのはやっぱり自分の美貌についての話であって、要するにそのまま三つで一つなのである。三つで一つだからこそ、目玉を取っても首を切られても、ちゃんと視界が開けているわけだし、頭の回転も早いのである。三人寄れば文殊の知恵。つまりそういうことである。
メタ推理という、禁じ手みたいな技を繰り出す九十九十九。彼がデータ収集の末に辿り着くのは真実であり物語の外側である。『コズミック』にしたって『ジョーカー』にしたって、推理をせずに犯人を割り出し真実を暴くわけだから作者泣かせでもある。プロットを設定した作家の背後に、既に九十九十九はいて、作家が作り出しゆく事件を、作家が完結させる前に九十九十九が完結させてしまう。非常に厄介である。急に上を向いて「犯人はあなただ」などと言われながら原稿を綴る作家を指差す。彼だけが高次元存在であり、美の権化なのである。
というわけで『九十九十九』。非常に面白いので一読するべし。である。
JDCシリーズは読んでいなくても構わないが、どちらかと言うと読んでおいたほうが良い。完全に読まなくても楽しめるのは、西尾維新のJDCトリビュートの方である。余裕があれば創世記とヨハネの黙示録についても触れておいて損はない。
「メタ小説」として本作を楽しみたいのであれば、それはとても幸運である。