北九州市立大学文芸研究会のブログ

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九十九十九のこと。

 舞城王太郎の『九十九十九』を語るには、私はまだ条件を満たしていない気がするが、それは御承知御了承願いたい。条件。つまり清涼院流水御大のJDCシリーズの『彩紋家事件』と『カーニバル』を読めていないからにほかならない。逆を言えば、『コズミック』『ジョーカー』は読了済みなので、あくまでもこの二つの話は出していくことになると思う。

 語るにあたって、やはり説明も必要だろう。清涼院流水舞城王太郎とJDCシリーズにおける九十九十九と、そもそもJDCシリーズ並びにJDCトリビュートについて。

 清涼院流水。私が敬愛する作家の一人。ロクにそれほど作品も読んでいないのに敬愛も何もあったものじゃないが、そういうものだと認識していただきたい。メフィスト賞第二回の受賞者。受賞作は『コズミック~世紀末探偵神話~』。世間からはかなり叩かれたミステリ作品であり、たぶん現在進行形で今この時も叩かれ続けていると思う。最近はTOEIC満点を獲ったり英語学習関係で活躍中(?)。

 舞城王太郎。私が敬愛する作家の一人。ロクにそれほど作品も読んでいないのに敬愛も何もあったものじゃないが、そういうものだと認識していただきたい。メフィスト賞第十九回受賞者。受賞作は『煙か土か食い物』。流れる文体。カタカナ英語。主人公はいつだって天才でいつだって女ったらし。漫画作品『バイオーグ・トリニティ』で原作やったり映画作ったり翻訳したりと、多方面で活躍中。

 九十九十九清涼院流水のJDCシリーズに登場する探偵いや探偵神。メタ推理を得意とする。その名も「神通理気」。必要なデータさえ揃えばすぐに真実へ辿り着く。推理を必要とせず、そこに過程は無い。有るのは結果のみであり、真実しか無い。美貌を極めた彼の顔は、見る者を恍惚の失神へと導いてしまうため、いつもサングラスをかけている。

 JDCシリーズ。清涼院流水の作品シリーズであり清涼院流水を代表するシリーズと言っても差し支えない。京都に位置する日本探偵倶楽部にて所属する探偵たちを描いた物語。「これはミステリなのか?」と、読者を唸らせる最高の作品。

 JDCトリビュート。JDCシリーズをもとに書かれた作品たちの総称または企画名。主に書いているのは西尾維新舞城王太郎西尾維新については『ダブルダウン勘繰郎』と『トリプルプレイ助悪郎』を参照のこと。いつもの西尾節が見られる。


 と、一通りの説明を終えた後、早速始めることにしよう。

 


 そもそも『九十九十九』は、「第一話」の話の流れについていけなかったら読むのをやめたほうがいいと思われる。悪いことは言わない。何がどう読みにくかった自分に合わなかったかを自覚できていないならまだしも、自覚した上で辛いと思いつつ読むのは愚の骨頂である。そんなの、この小説に限った話ではないけれど、この小説は特にそういった傾向が強い。一般常識に縛られて読むのはやめておこう。寛大に受け入れるべし。一行目「産道を通って子宮から出てきた僕が感動のあまり「ほうな~♪」と唄うと僕を抱えていた看護婦と医者が失神して、僕はへその緒一本でベッドの端から宙吊りになった」と。要するにそういうお話である。原作よりも遥かにこちらの九十九十九は強化されている。美しさのあまり、実母ではない他の女鈴木君に掻っ攫われ、以降彼女の世話を受ける。与えられた名前は「寛大誠実正直」。でもやっぱり美しさのあまり彼は目玉を繰り抜かれ鼻を削がれ、間一髪で元通りになるもやっぱりそれは続く。鈴木君も鈴木君で、やっぱり彼の美貌に魅せられて失神してしまうのでまともに世話もできない。それゆえの仕打ちである。見かねた配偶者加藤君はとうとう実家のある福井県西暁町へと連れて行き、鈴木君は刑務所へ行く。同じく彼と一緒に連れられて来た鈴木君と加藤君の実子であるツトムは唯一彼の美貌を見て失神しない人間であり弟である。聖思流と聖理河は双子の兄妹。お互いの妄想の中に幻影城を建設していて、彼を人間としては扱わない。ガジョブンと呼んでペットとして扱っている。
 そんなこんなである日殺人が起こる。創世記とヨハネの黙示録を見立てた殺人が。苗字を加藤とし、九十九十九を名前として与えられた加藤九十九十九は、揃うものさえ揃えばすぐにわかる。何もかもわかる。だからこの殺人が見立てだとすぐにわかった。誰が殺人犯かもすぐにわかった。腹を切り開き、その中に潜り込んで再び産まれることで、別の女の子供になろうとした二人の子供、セシルとセリカが犯人だと。
 そんなこんなであっという間に第一話は終わる。

 第二話の準備はできてるかい?
 でもまあ第七話まであるわけで、それをいちいち語っていたらば日が暮れて登ってくれても終わらないだろうからダイジェストでお送りすることを許してほしい。どうか。

 第二話は全然違うお話が始まる。違うとは言ったって、九十九十九であることに変わりはないけど、周りを取り囲む人間関係が違う。泉と梓とネコ。この女の子三人と一緒に焼死体事件について解決。そして「清涼院流水」を名乗る人間から「第一話」が送付される。結局先に語った第一話のことであるが、実際は違う。先の「第一話」と、この第二話における九十九十九の過去は、似て非なるものであった。

 第一話。
 第二話。
 第三話。
 第五話。
 第四話。
 第七話。
 第六話。

 このように続くわけだが、間違っているわけではない。ちゃんとこのように進行するのだ。第三話においては「第一話」と「第二話」の原稿が送られてくるし、第七話では「第一話」から「第六話」までの全ての原稿が送られてくる。一貫して見立ては行われているし、行われなかった見立てもある。行われなかったというのは、要するに起こるべくして起こらなかったことでもあり、しかし逆にちゃんと起こったということでもある。清涼院流水は様々なペンネームに身を変えて、編集者太田克史は何度も死ぬ。
 物語の話数の順序が違うからといって、無理に読み返す必要はない。なぜなら一度起こった、一度描かれた「第四話」「第七話」は違うものであるかわりに、それ自体は微動だにしないからである。第五話が終わり第四話が始まるのにはちゃんと理由があって、第七話の後に第六話があることにも理由がある。だけど第四話の後に続く第五話は、ここで描かれる第五話とは違う第五話だし、第七話にしてもそれは同じで、第六話の後に続く第七話は違うものである。第五話を読んで第四話を読んだからといって、第五話に何らかの変化が訪れることはない。何かの発見はあってもだ。紙媒体には酷な技である。
 そもそもそれぞれの「話」における世界は他の「話」とは違う世界なのであって、だからこそ原稿として成立しうるのである。様々な世界を描いた様々な「話」が、様々な世界に送られ、様々な九十九十九に読まれ、そして否定される。書き手は否定しかされない。なんとも浮かばれない清涼院流水。キリストの代わりに十字架に磔にされていた時は涙が止まらなかった。それは嘘である。
 どの世界にもどの「話」にも、九十九十九の隣には女の子がいて、時々義母もいて、三つ子の「寛大」「誠実」「正直」もいる。だからそういう意味では「第一話」以外の九十九十九は幸せな家庭を築いていたわけだ。幸せで終わらなかったのは、清涼院流水から原稿を送られたり、周囲でヨハネの黙示録と創世記を見立てた出来事がいくつも起きて、講談社ノベルスが前触れなしに腹から出てきたりしたからで、そういう出来事が全部九十九十九を追い込んで無理矢理動かしたのである。原動力は小説だった。舞城作品特有の家族愛に変わりはない。何があっても家庭は続く。綺麗な終わり方とはそういうものである。

 九十九十九。9109109であり9+9+9。要するに27の三位一体であり、彼は三つで一つ。「三位一体」は物語中でもキーワードとなっている。彼の言う三位一体というのはやっぱり自分の美貌についての話であって、要するにそのまま三つで一つなのである。三つで一つだからこそ、目玉を取っても首を切られても、ちゃんと視界が開けているわけだし、頭の回転も早いのである。三人寄れば文殊の知恵。つまりそういうことである。

 メタ推理という、禁じ手みたいな技を繰り出す九十九十九。彼がデータ収集の末に辿り着くのは真実であり物語の外側である。『コズミック』にしたって『ジョーカー』にしたって、推理をせずに犯人を割り出し真実を暴くわけだから作者泣かせでもある。プロットを設定した作家の背後に、既に九十九十九はいて、作家が作り出しゆく事件を、作家が完結させる前に九十九十九が完結させてしまう。非常に厄介である。急に上を向いて「犯人はあなただ」などと言われながら原稿を綴る作家を指差す。彼だけが高次元存在であり、美の権化なのである。

 というわけで『九十九十九』。非常に面白いので一読するべし。である。
 JDCシリーズは読んでいなくても構わないが、どちらかと言うと読んでおいたほうが良い。完全に読まなくても楽しめるのは、西尾維新のJDCトリビュートの方である。余裕があれば創世記とヨハネの黙示録についても触れておいて損はない。


「メタ小説」として本作を楽しみたいのであれば、それはとても幸運である。